日本の世界遺産特集(11)「石見銀山遺跡とその文化的景観 (島根県) 」

出典:https://www.photolibrary.jp

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「石見銀山遺跡とその文化的景観」 について

「石見銀山遺跡とその文化的景観」は、日本海に面している島根県のほぼ中央にあります。

この「石見銀山遺跡とその文化的景観」は、石見銀を採掘・精錬し、運搬・積み出しに至るまでの鉱山開発の全てである「銀鉱山跡と鉱山町」「港と港町 」および、これらをつなぐ「街道」によって構成されています。

この「石見銀山遺跡」は、世界の東西で文明が交流していたということを証明するものであり、銀を生産する伝統的な技術があったことや、考古学的な遺跡や銀鉱山に関する土地利用の総体を示す「文化的景観」としての価値があります。

記載物件名 「石見銀山(いわみぎんざん)遺跡とその文化的景観」
具体的な物件 1.銀山柵内(ぎんざんさくのうち)、2.代官所跡(だいかんしょあと)、3.矢滝城跡(やたきじょうあと)、4.矢筈城跡(やはずじょうあと)、5.石見城跡(いわみじょうあと)、6.大森・銀山(おおもり・ぎんざん)重要伝統的建造物群保存地区、7.宮ノ前(みやのまえ)、8.熊谷家住宅(くまがいけじゅうたく)、9.羅漢寺五百羅漢(らかんじごひゃくらかん)、10.石見銀山街道鞆ケ浦道(いわみぎんざんかいどうともがうら)、11.石見銀山街道温泉津・沖泊道(いわみぎんざんかいどうゆのつ・おきどまりどう)、12.鞆ケ浦(ともがうら)、13.沖泊(おきどまり)、14.温泉津(ゆのつ)重要伝統的建造物群保存地区
所在地 島根県大田市
推薦年月 平成18年1月
記載年月 平成19年7月
資産範囲の軽微な変更承認年月 平成22年7月
区分 文化遺産

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その1:銀山柵内(ぎんざんさくのうち)

「石見銀山遺跡とその文化的景観」の「銀山柵内」は、島根県大田市にあり、1526年に本格的に「石見銀山」が開発されるようになると、銀製錬の町として発展して行きました。

この「銀山柵内」は、石銀集落跡や住居跡があるほか、鉱石の重さを比べて選別する施設跡や製錬炉跡、羽口、カラミ、数多くの坑口などが発見されています。

銀製錬の開発が進むにつれて、戦国大名の大内氏、尼子氏、毛利氏などが「石見銀山」の所有権を巡って争うようになり、石見銀山を守るように築かれた「山吹城」が主な戦場となりました。

1600年以降は、「銀山柵内」は、幕府の直轄地になり、初代の石見銀山奉行である「大久保長安」によって「山吹城」の山麓に陣屋が設けられ、当地の政治や軍事の中心地として整備されました。

2代目奉行「竹村丹後守」の時代になると、奉行所(後の大森代官所)が大森に移されたため、「銀山柵内」は、政治・行政・経済の中心地としての重要性を次第に失っていきました。

しかし、この「銀山柵内」には多くの間歩や精錬所があり、江戸時代初期には、外界から遮断するための柵が設けられ、出入口にも番所が設置されて厳重に管理されていました。

現在でも、「銀山柵内」には、多くの間歩の跡や宗教施設・城跡などが残っています。

そんな「銀山柵内」の見どころは、大きく分けて14箇所あります。

1)吉岡出雲墓
2)高橋家住宅
3)佐毘売山神社
4)新切間歩
5)清水寺
6)渡辺家住宅
7)豊栄神社
8)大久保石見守墓
9)西本寺
10)安養寺
11)清水谷精錬所跡
12)福神山間歩
13)龍源寺間歩
14)吉岡出雲墓

キーワードチェック:羽口
羽口とは、土製で中心に風を通す穴があり、金属を溶かす時に風邪を送って送風機と炉の間に取り付けて風を送る管のことです。
キーワードチェック:カラミ
カラミとは、「鍰」と書き、鉱石を溶かして精錬するときに生ずるカスのことです。
キーワードチェック:間歩
間歩とは、鉱山の坑道のことです。

吉岡出雲墓

「銀山柵内」の「吉岡出雲墓」は、毛利家の銀山役人で、「吉岡隼人」とも呼ばれる「吉岡出雲」の墓です。

「吉岡出雲」は、1600年の「関が原の戦い」で、毛利家が敗北して「石見銀山」から撤退した後は、新らしく石見銀山奉行となった「大久保長安」に仕えました。

彼は、「石見銀山」のほかにも、静岡県の「伊豆湯ヶ島」や新潟県の「佐渡島」の鉱山開発にも貢献し、「徳川家康」から「辻が花染丁字紋道服」と「出雲」の称号と長安から知行地(ちぎょうち)500石を授かりました。

1614年に「吉岡出雲」が死去した際は、「石見銀山」の山麓に所在する「極楽寺」(現在は廃寺)の境内に葬られました。

なお、現在の墓碑は、吉岡家の8代目「幡五郎良勝」によって1813年に再建されたもので、1978年に島根県大田市の史跡に指定されています。

キーワードチェック:辻が花染丁字紋道服
「辻が花染丁字紋道服」とは、色彩豊かな生地に絞り染めで丁字文を散らした綿入れのように仕立てた道服のことで、色彩・技法・形態などに桃山時代の特色が現れています。
なお、「吉岡出雲」の「「辻が花染丁字紋道服」」は、国の重要文化財に指定され、「東京国立博物館」に収蔵されています。
キーワードチェック:知行地
「知行地」とは、封建的な主従関係のなかで、権力者が服従者に対して与えた土地のことです。

高橋家住宅

「銀山柵内」の「高橋家住宅」は、島根県大田市にあり、1839年頃に町年寄山組頭を勤めた「高橋富三郎」の住宅で、「石見銀山御料銀山町寄山組頭遺宅」として島根県の史跡に指定されています。

この「高橋家住宅」は、木造2階建ての桟瓦葺の切妻造りで、腰壁は板張り、外壁は真壁造りの白漆喰仕上げで、1階には格子戸があります。

キーワードチェック:町年寄山組頭
「町年寄山組頭」は、町年寄は、銀山を経営する人たちの住む町を運営する職業で、山組頭は、銀山師から選ばれて鉱山の経営者である銀山師たちと代官所の取次ぎなどを担う職業です。

佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)

「銀山柵内」の「佐毘売山神社」は、 島根県大田市大森町の銀山にある神社で、「姫山神社」とも称されていました。

この「佐毘売山神社」がいつ創建されたかについては不明ですが、「金山姫」「埴山姫」「木花咲耶姫」が祀られていたと言われています。

1434年に、室町幕府の6代目将軍である「足利義教」の命によって、当時の周防国の守護「大内氏」が島根県の石見国美濃郡益田村に鎮座する「佐毘売山神社」の分霊を勧請して「五社大権現」(ごしゃだいごんげん)と呼ばれるようになりました。

その後、「佐毘売山神社」は、「石見銀山」の所有者「大内氏」「尼子氏」「毛利氏」から庇護され、江戸時代には歴代の石見銀山奉行・大森代官の祈願所となりました。

なお、この「佐毘売山神社」の社殿は、1818年の火災焼失によって1819年に再建されたもので、特に、拝殿は、天領特有のものとされ、境内一帯は国の史跡に指定されています。

新切間歩(しんきりまぶ)

「銀山柵内」の「新切間歩」は、「五か山」の一つで、良質の銀鉱石を産出する「御直山」(おじきやま)です。

「新切間歩」は、1715年に第15代官である「鈴木八右衛門」の命によって掘削されたことが始まりと伝えられています。

その後、1716年~1735年の間に鉱脈が掘り当てられて以降、本格的な開発が始まりました。

1823年には、この「新切間歩」は、銀掘17人・柄山負2人・手子8人が従事し、江戸時代後期には坑口から520メートルにも達しましたが、産出が激減したために休坑となりました。

キーワードチェック:間歩
「間歩」とは、「鉱山」で鉱石を採掘するために掘られた穴・行動のことです。
キーワードチェック:御直山
「御直山」は、江戸時だしに金銀山を領主が直接経営する形態のことです。
キーワードチェック:五か山
「五か山」は、新切間歩に加え、永久間歩、大久保間歩、龍源寺間歩、新横相間歩の総称のことです。
キーワードチェック:銀掘
「銀掘」とは、鋼鉄製の金工用ののみである「鏨」(たがね)で採掘する職人のことです。
キーワードチェック:柄山負
「柄山負」とは、鉱山・炭鉱で坑道掘進・採鉱((採炭)・選鉱(選炭)の過程で選別される不要の岩塊・岩片・スライム(岩石などの微細粒子) などの「捨石」を坑内から運び出す人夫のことです。
キーワードチェック:手子
「手子」とは、掘削作業を手伝う子供のことです。

清水寺(きよみずでら)

「銀山柵内」の「清水寺」は、島根県大田市にある高野山真言宗の寺院で、「推古天皇」御代に開かれたことを起源とすると言われています。

当初は、「天池寺」(あまいけでら)と呼ばれて「仙ノ山」(せんのやま)の山頂付近に置かれていましたが、798年に移転し、「清水寺」に改称されました。

「石見銀山」は、博多の豪商である「神屋寿禎」(かみやじゅてい)が、この「清水寺」を参拝した後に、白く輝く銀鉱石を拾ったことが始まりとされています。

また、山師である「安原伝兵衛」(やすはらでんべえ)は、「清水寺」の本尊である「十一面観音」に7日7夜祈願してことで「釜屋間歩」(かまやまぶ)を発見できたと伝えられています。

そんな「清水寺」は、江戸時代の末期に仙ノ山中腹に、1878年に現在地に移転され、1931年には「佐毘売山神社」の「神宮寺」と合併し、山門が移築されています。

「清水寺」の山門に掲げられる扁額「銀華厳」は、1860年に第57代代官「加藤餘十郎」(かとうよじゅうろう)の筆によるもので、山門と共に市の有形文化財に指定されています。

なお、「清水寺」には、県や市に指定されている文化財が数多くありますので、見どころはたくさんあります。

渡辺家住宅

「銀山柵内」の「渡辺家住宅」は、江戸時代には坂本家の居宅でした。

1604年に坂本家の祖である「清左衛門」は、初代奉行「大久保石見守」によって「石見銀山」附の地役人に当用され、その後も子孫が銀山経営に携わりました。

現在の「渡辺家住宅」は、1800年の大森大火の後、1811年に再建されたもので、敷地の周りに塀や門が設けられ、内部には6間取りの式台付玄関や座敷などがあることから、格式が高いことがうかがえます。

なお、この「渡辺家住宅」は、旧銀山町に残る江戸時代後期に建てられた唯一の地役人住宅であることから、国の史跡に指定されています。

豊栄神社

「銀山柵内」の「豊栄神社」は、島根県大田市大森町にある神社で、前身は、「長安寺」で、1571年に「毛利輝元」によって開かれたと伝えられています。

「長安寺」は、1600年の「関が原の戦い」によって、毛利氏が領土を大幅に減らされて「石見銀山」が幕府領になると、衰退していきました。

この「長安寺」は、1866年の「第二次長州戦争」の際には、境内が「長州藩」の本陣となり、本堂に安置されていた「毛利元就」の木像が発見され、藩祖縁の寺院として境内が整備され、霊殿の造営や鳥居、石燈籠、狛犬などが寄進されました。

明治時代初頭に発令された「神仏分離令」と「廃仏毀釈運動」によって仏式が廃され、「長安寺」は、1870年に「豊栄神社」の社号を賜わりました。

現在の「豊栄神社」の社殿は、その当時のもので、「石見銀山」の歴史の一端を担うものとして、大田市の史跡に指定されています。

大久保石見守墓

「銀山柵内」の「大久保石見守墓」は、1601年に初代石見銀山奉行に就任し、銀山の開発に力を注いだ人物の墓で、国の史跡に指定されています。

「大久保石見守長安」が1601年に開いた「大久保間歩」は、「石見銀山」でも最大規模で銀山の繁栄の基礎を築きました。

また、「大久保石見守長安」は、「石見銀山」で実績を上げてからも「佐渡奉行」や「伊豆金銀山奉行」などを兼任し、「天下総代官」とも呼ばれていました。

「徳川家康」からも信任され、2万石(行政区として10万石)が与えられ、このほかにも、関東地方の交通網を整備したり、一里塚を設置したりして江戸幕府初期の行政や財政に大きく貢献しました。

しかし、幕政に大きな影響力を持っていたために政敵も多く、1616年に「大久保石見守長安」が死去すると、一族関係者全員が幕府の転覆を企てたとの嫌疑を受けて処刑されています。

「大久保石見守墓」は、1605年に「大安寺」境内跡に建立され、生前に「逆修墓」(ぎゃくしゅばか)が建立されましたが、大破したため、1794年に再建され、隣には「大久保石見守長安」の功績が刻まれた紀功碑が建立されています。

キーワードチェック:逆修墓
「逆修墓」とは、生きている間に自分のためのお墓を建てることです。

西本寺

「銀山柵内」の「西本寺」は、島根県大田市大森町にある浄土真宗本願寺派の寺院で、前身は「西本坊」で、山門は市の指定文化財に指定されています。

創建は不詳ですが、当初は出雲国神門郡白枝村にあったとされ、1624年~1645年に「石見銀山」の住民である「熊谷宗右衛門尉直政」が6世「空乗和尚」を招いて境内が移され、「西本寺」に寺号が改称されました。

本尊には阿弥陀如来が祀られ、山門は、「石見銀山」を守護する為に築城された「山吹城」の城門と伝わるもので、石見銀山と共に衰微した「山吹城」の麓にあった「龍昌寺」(りゅうしょうじ)の山門が、1961年に「西本寺」に移されました。

安養寺(あんようじ)

「銀山柵内」の「安養寺」は、島根県大田市大森町にある浄土真宗本願寺派の寺院で、創建は不詳です。

当初は、仙ノ山の山頂に境内のある天台宗の寺院でしたが、1523年に浄土真宗に改宗しました。

この「安養寺」は、1789年~1801年に現在地に移され、「石見銀山」で働く労働者から信仰され、寺運も隆盛しました。

なお、「安養寺」本堂の一部は、当時のもので、経堂の正面扉上部には見事な竜の鏝絵(こてえ)が施され、内部には六角経蔵が設置され、御経が奉納されています。

キーワードチェック:鏝絵(こてえ)
鏝絵とは、日本で発展した漆喰を使ったレリーフのことで、左官職人が左官ごてで仕上げることから、この名前がつきました。

清水谷精錬所跡

「銀山柵内」の「清水谷精錬所跡」は、島根県大田市大森町銀山地区にあり、1886年に「藤田伝三郎」が起業した「藤田組」(現在の同和鉱業株式会社)によって整備された精錬所跡です。

1894年に、巨額が投資されて「武田恭作」(たけだきょうさく)氏の設計を基に、近代的な銀の精錬所が完成しましたが、鉱石の品質が悪く、精錬所の製錬能力も不十分で採算が合わないため、1896年に操業が停止されました。

この「清水谷精錬所跡」は、高さ33メートル、8段の石垣を設けて最上段までトロッコで鉱物を運べる設計で、内部には当時の最新式だった「横置き多管式煙管ボイラー」が導入されています。

また、精錬にも「収銀湿式製錬」(しゅうぎんしっきせいれん)という技術が採用されており、現在は石垣が残っているのみですが、当時の近代精錬所の遺構として貴重なものです。

キーワードチェック:藤田伝三郎
「藤田伝三郎」は、山口県萩市出身の実業家で、土木建設・金融・電力など幅広く事業を展開したことから、「藤田財閥」「藤田コンツェルン」とも呼ばれ、西日本の政財界に大きな影響力を持ちました。
キーワードチェック:武田恭作
「武田恭作」は、東京帝国大採鉱冶金学科を卒業、1920年に工学博士として「石見銀山」のほか、「小坂鉱山」(秋田県)や「四ツ花軌道」(福島県)、「寿都鉱山」(北海道)などを手がけました。
キーワードチェック:収銀湿式製錬
「収銀湿式製錬」は、酸やアルカリ溶液で鉱石に含まれている銀を溶かしてから取り出す精錬技術のことです。

福神山間歩

「銀山柵内」の「福神山間歩」は、採掘に携わった山師個人が経営した「自分山」のものとされていますが、1767年~1778年には代官所直営の「御直山」の坑道にもなったことがあります。

この「福神山間歩」は、3か所に坑口があり、上段は空気抜き坑、下段の2つは中でつながっています。

さらに、「福神山間歩」は、道路の下2メートルのところを通って「銀山川」の下をくぐり、後ろの銀山の最高地点「仙ノ山」の方向に掘り進んだと伝えられ、「仙ノ山」の逆方向に坑口が開いている珍しいものです。

なお、国の史跡に指定されていますが、内部は危険なので、現在は一般者の見学は出来ないようです。

龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)

「銀山柵内」の「龍源寺間歩」は、「五か山」の一つで江戸時代中期の1715年に開発された「御直山」で、坑道は高さ1.6~2.0メートル、幅0.9~1.5メートルで、水平距離は約630メートルあり、鉱脈沿いに20程度の細く小さな坑道が延びています。

「龍源寺間歩」の江戸時代に掘削された部分は、ノミ等の当時の道具の跡が随所に残され、竪坑や斜坑、永久坑があり、良好な鉱物が発見された為、新たに製錬所が設置されました。

「御直山」のなかでは、大久保間歩に次ぐ大規模なもので、当初は福石が産出されましたが、その後は、黄銅鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱なども採掘され、江戸時代後期には永久坑の更に下部に水抜き坑を設け、そこからの採掘が可能となりました。

「龍源寺間歩」の坑道の前には「四ツ留役所」が設けられ、詰所では山方掛や同心、地役人などが監督や見張りなどを行い、鏈置場が設置されました。

なお、「龍源寺間歩」は、「石見銀山遺跡」として国の史跡に指定されています。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その2:代官所跡

「石見銀山遺跡とその文化的景観」の「代官所跡」は、17~19世紀半ばまで、江戸幕府が「石見銀山」と周辺地域のおよそ150程度の村を支配するために代官を派遣した代官所跡のことです。

この「代官所跡」は、敷地内には1902年には「邇摩郡(にまぐん)役所」として使用されていた建物があり、表門と長屋門には往年の面影も残っています。

なお、現在は、鉱山道具や鉱石の資料、銀山地方に関する歴史的な資料などが展示されている資料館になっています。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その3:矢滝城跡(やたきじょうあと)

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の「矢滝城跡」は、「石見銀山」の南西部に位置し、標高約634メートルの「矢滝城山」にある城館跡のことです。

「矢滝城」が築城された年代は不詳ですが、戦国時代に「石見銀山」の支配権をめぐる争奪戦があり、1528年にに「大内義興」(おおうちよしおき)が、その3年後に「小笠原氏」によって銀山は支配しました。

「矢滝城山」の北側には「石見銀山」から「温泉津港」(ゆのつこう)までは銀山街道が通り、街道を挟んだところに「矢筈城跡」(やはずじょうせき)があります。

「矢滝城跡」のある山頂部は、南北2つの曲輪群(くるわぐん)で構成され、現在も、北側は枡形の虎口(入口)や竪堀(たてぼり)、南側は堀切などが残り、中世の山城の形態を留めています。

そんな「矢滝城跡」からの、眼下に広がる日本海や遠くの「三瓶山」などの眺望は、筆舌に尽くしがたいそうです。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その4:矢筈城跡(やはずじょうあと)

「石見銀山遺跡とその文化的景観」の「矢筈城跡」は、東西1600メートル、南北500メートルの岡山県内で最大級の中世の山城跡のことです。

山上に築かれた年代についての詳細はわかりませんが、登山口は、「美作河井駅」(みまさかかわいえき)と「千磐神社」(ちいわじんじゃ)にあります。

「矢筈城」は、「高山城」とも呼ばれ、1532年~1533にかけて、「藤原秀郷」の後裔で美作国と因幡国に勢力を持っていた「草苅衡継」(くさかりひらつぐ)が、加茂町の山下から知和にまたがる標高756メートルの「矢筈山」に築いた山城です。

この「矢筈城」は、「石見銀山」と「温泉津」(ゆのつ)とを結ぶ銀山街道を間に挟んで対峙する「矢滝城」(やたきじょう)一対となり、銀山を防備する要衝の役割や通路掌握の役割を果たしていたと考えられています。

ちなみに、「草苅衡継」は、この「矢筈城」で毛利氏とともに「尼子氏」「羽柴秀吉」と戦いましたが、1584年に「秀吉」と和睦した「吉川元春」の命によって開城するまで、一度も落城することはありませんでした。

そんな「矢筈城跡」には、細長い主郭部と南下の腰曲輪があり、丸付近と北川の尾根には山城特有の遺構である土塁、石垣、竪堀、堀切などが残っています。

なお、「矢筈城跡」は、国の史跡に指定されていますが、分かりにくいので、ガイドと一緒の登山することをおすすめします。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その5:石見城跡(いわみじょうあと)

「石見銀山遺跡とその文化的景観」の「石見城跡」は、「銀山柵内」から北西に5キロメートルほどのところにあり、16世紀に標高153メートルの「龍巌山」の山頂部を利用して築城された山城跡のことで、天然記念物に指定されています。

「石見城」についての詳細は分かっていませんが、「応仁・文明の乱」で西軍方に属していた「小野氏」の居城であったと推定され、1470年に東軍方の武将「野田泰忠」らに火を放たれたとの記録があります。

この「石見城」は、日本海にほど近い海岸沿いにあったことから、仁摩方面の街道を守備し、1565 年頃には「温泉津」や「石見銀山」に権益のあった領主「温泉氏」(ゆし)の軍事的拠点だったと考えられています。

そんな「石見城跡」は、現在は、「善峰川」(ぜんぽうがわ)に臨んで屈曲している土塁や堀が現存し、発掘調査では城の西側から建物や井戸などが出土しています。

また、「石見城跡」の手前は、天然の奇岩がそびえる絶壁になっており、その山肌には長さ50メートルの「ノウゼンカズラ」がつたい、7月~8月には赤い花をつけ、秋には紅葉が美しいスポットです。

なお、「石見城跡」は私有地のため、見学する場合には、事前に地権者の許可を得ておきましょう。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その6:大森・銀山重要伝統的建造物群保存地区

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の「大森・銀山重要伝統的建造物群保存地区」は、およそ162.7ヘクタールの地区で、江戸時代に幕府の直轄地として「銀山柵内」に隣接して発展した150余村の中心町のことです。

「大森・銀山重要伝統的建造物群保存地区」の町並みは、約2.8キロメートルにわたって「銀山川」沿いの谷間にのびており、目抜き通りには、現在も代官所跡や郷宿、武家屋敷だった旧川島家、商家などが残っています。

また、「大森・銀山重要伝統的建造物群保存地区」の町並みの背後には、鉱山町の歴史的景観として、山裾や「銀山柵内」の銀山地区に社寺や石切り場などが残存しています。

なお、「大森・銀山重要伝統的建造物群保存地区」は、1954年に発足された「大森町文化財保存会」によって「大森町住民憲章」が制定され、40年にわたってこの地区の保全が行われています。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その7:宮ノ前(みやのまえ)

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の「宮ノ前」は、「大森・銀山」の北東端、「代官所跡」の東側100メートルの銀山川沿いに位置する銀精錬施設の遺跡です。

「宮ノ前」は、発掘調査によって、16世紀末~17世紀初頭の道路や建物など地下遺構が検出された地区です。

この「宮ノ前」で検出した建物跡のうち、一つは面積が約24平方メートルほどの小規模なものでしたが、その内部には24基の炉跡が集中しており、精錬の作業場として確認されました。

「宮ノ前」の作業場は、「仙ノ山」からおよそ3キロメートル離れたところに位置する精錬専施設で、産出した銀の品位を高めることを目的とする作業場であったと考えられています。

そんな「宮ノ前」地域は、17世紀に代官所が大森地区に設置されて以降、支配の拠点が銀山地区から移され、19世紀には「石見銀山」支配の中心となったところです。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その8:熊谷家住宅(くまがいけじゅうたく)

「石見銀山遺跡とその文化的景観」の「熊谷住宅」は、1801年に起きた町並みの大火後に建築され、「石見銀山」御料における有力商人「熊谷家」の民家です。

「熊谷家」は、古文書などには、先祖は「毛利家」の家臣で、江戸時代の初めから仙ノ山一帯に居住して「銀山附役人」を務めていたことが記されています。

その後、由緒書などには、1729年に旧大森町の「田儀屋」が「熊谷家」を継承したことによって「熊谷家」が成立したとされています。

この「熊谷家」は、家業の鉱山業や酒造業のかたわら、代官所に納める年貢銀を秤量・検査する「掛屋」や、幕府の直轄領である「石見銀山」御料を支配する「郷宿」、代官所の御用達などを務めました。

さらに、「熊谷家」の当主は、代々大森町の「町年寄」の座に就くなど、「石見銀山」御料内では最も有力な商家であったと伝えられています。

「熊谷家」の「熊谷住宅」は、主屋の平面構成や時代の推移を示す屋敷の構えなどに特徴があり、江戸時代後期から末期における有力商人の身分や生活の変遷がよく現れています。

なお、「 熊谷住宅」は、建築から200年近くを経て、各建物から雨漏り・不同沈下・蟻害等の破損や無理な改築でひどい傷みが見られるようになったため、2001年月より、幕末から明治初年のものを再現する復原工事が着手されました。

また、現在は、「 熊谷住宅」では、流行のコッペパンが販売されていたり、カフェも有りますので見学の後に一息つくのもよいかもしれません。

そんな「熊谷住宅」の見どころは、下記の4つです。

1)奥の間
2)地下蔵
3)主屋2階
4)台所

奥の間

「熊谷住宅」の「奥の間」は、熊谷家の応接空間で、中庭に面しており、八畳の奥の間と、六畳・六畳の三間続きの座敷があり、公的な場として、大名家の役人を接待したり、「町年寄」の寄合などに使われたと言われています。

なお、「熊谷住宅」は、1801年の建造後、1868年に間取りが変えられましたが、この「奥の間」は、現在も、建築された当初のまま残っています。

地下蔵

「熊谷住宅」の居間の床下に設置された石組の地下蔵で、火災に備えて耐火金庫のような役割を果たしていたものと考えられています。

なお、2002年に建物の保存・修理工事が行われ、その最中に石積みの壁面や溜枡(ためます)が発見され、復旧工事が行われました。

キーワードチェック:溜枡
「溜枡」とは、屋外の排水管が合流したり屈曲したりする場所などに、水に混入した土砂や固形物などをためるために、適当な間隔をあけて設けた枡のことです。

主屋2階

「熊谷住宅」の「母屋2階」は、江戸幕府の幕末から明治初年の様子が再現されたもので、十畳、九畳、八畳、八畳、六畳、六畳と続く広い座敷で、かつては、「郷宿」などに利用されていたものと考えられています。

なお、現在は、1921年に「熊谷家」に嫁いだ「ヒサ子」さんの嫁入り道具が展示されたり、特別展の会場として利用されています。

台所

「熊谷住宅」の「台所」は、江戸幕府の末期から明治初年の様子が再現されたもので、主屋から土間続きになっています。

この「台所」には、熊谷家の人々が日々暮らしていたことを示す、太い梁組の大空間、大小10基ある竈(かまど)、流しや水瓶、蒸籠やまな板などが置かれています。

なお、現在は、この「台所」で、体験学習ができます。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その9:羅漢寺五百羅漢(らかんじごひゃくらかん)

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の「羅漢寺五百羅漢」は、左右の石窟のなかに、それぞれ250体ずつさまざまな姿勢や表情をした五百羅漢像が安置されている寺院です。

18世紀の半ば頃の銀山の採鉱は、命がけの仕事でもあったため、代官や代官所役人、領内の人々の援助や協力を受け、亡くなった人々を供養するために25年の歳月をかけて石窟内に石造の五百羅漢を納めた「羅漢寺」が建立されました。

ちなみに、「五百羅漢」とは、500人のお釈迦様の弟子のことで、人間の持つ感情や欲望は捨てられても、仏や菩薩までの境地に到達することはできず、人間と仏の中間の立場にある存在といわれ、この石仏には、「石見銀山」の石工技術がよく表れています。

当時は、この「羅漢寺」をお参りすると、亡くなった肉親や親近者たちに会えるという噂が広まり、多くの人々が訪れたと言われています。

「羅漢寺五百羅漢」の「五百羅漢」は、笑っていたり泣いていたり、表情が豊かな石仏で、その顔立ちからモデルは渡来人であるとも言われていますが、詳細はよくわかっていません。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その10:石見銀山街道鞆ケ浦道(いわみぎんざんかいどうともがうらどう)

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の「石見銀山街道鞆ケ浦道」は、銀山柵内から北西6キロメートルの日本海沿岸にあり、石見銀山の開発初期に使用されていた銀山から積出港鞆ケ浦(現在の仁摩町)に出る搬出路です。

全長7kmほどの距離で、「石見銀山柵内」「吉迫口番所」「柑子谷・永久製錬所」「上野集落・胴地蔵」「馬路高山山麓・宝篋印塔(ほうきょういんとう)」「鞆ヶ浦(友の浦)」とつながっていました。

当時、「石見銀山街道鞆ケ浦道」は、銀鉱石や製錬銀だけでなく、さまざまな物資を運搬するために利用された街道で、銀山から鞆ヶ浦までは約7キロメートルあり、港まで最短距離の街道です。

この「石見銀山街道鞆ケ浦道」は、「神屋寿禎」によって精錬技術が導入されるまで、銀鉱石がそのまま運ばれており、多くの商船が銀鉱石を求めて博多から来航し、繁栄したことが記録されています。

出入口は、銀山側の畑口と吉迫口で、山中を抜ける全行程に勾配のある狭い道が残されています。

この「石見銀山街道鞆ケ浦道」の途中には、土橋や切土の道普請の跡や、往来の人々の交通安全を祈った石碑・石仏、銀鉱石の搬出や交通に関わる伝承が残っています。

そんな「石見銀山街道鞆ケ浦道」は、街道の中では起伏も大きく、楽な行程ではありませんが、泥を浴びる場所である「イノシシのヌタ場」も見られ、尾根に作られた土橋を渡り、峠の頂上から見下ろす日本海は、絶景の一言だそうです。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その11:石見銀山街道温泉津・沖泊道(いわみぎんざんかいどうゆのつ・おきどまりどう)

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の「石見銀山街道温泉津・沖泊道」は、「大森代官所跡」から宿場町「西田集落」を通り、海の玄関口「温泉津温泉」「沖泊港」までの約13.5キロメートルの区間の街道のことです。

具体的には、「石見銀山柵内」「坂根口番所」「降路坂」「宿場町・西田」「清水集落・金びしゃく井戸」「温泉津」「沖泊」とつながっていました。

「石見銀山街道温泉津・沖泊道」の道中は、坂などの幾つかの難所があり、歴史的遺産や伝承として、当時の交通の大変さが語り継がれています。

この道中での見どころは、下記の8つです。

1)大谷六地蔵
2)降路坂の茶店跡
3)降路坂の題目塔
4)火伏観音
5)ヨズクハデ
6)将棋岩
7)清水の金柄杓
8)松山の階段道

大谷六地蔵

「石見銀山街道温泉津・沖泊道」の「大谷六地蔵」は、「坂根口番所跡」の近くの道を少し外れたところにある7体の首がないお地蔵さんのことで、明治時代の「廃仏棄釈」によって首を切られたといわれています。

降路坂の茶店跡

「石見銀山街道温泉津・沖泊道」の「降路坂の茶店跡」は、標高429.1メートルのところにあり、1940年代までは茶店があったそうです。

降路坂の題目塔

「石見銀山街道温泉津・沖泊道」の「降路坂の題目塔」は、見過ごして通り過ぎてしまいそうですが、谷川を挟んだ対岸の旧道沿いにあり、「貞享三(1686年)丙寅十月日連乗」と刻まれています。

火伏観音(ひぶせかんのん)

「石見銀山街道温泉津・沖泊道」の「火伏観音」は、かつて西田の集落に火災があったときに、この「火伏観音」がコウモリに姿を変えて火を消したという言い伝えがあります。

ヨズクハデ

「石見銀山街道温泉津・沖泊道」の「ヨズクハデ」は、切り取った伊年の束を天使星にするときに立てられたものです。

この辺りの地元では、フクロウを「ヨズク」、稲掛けを「ハデ」と呼び、この立てかけた外観がフクロウが羽を休めている姿に似ていることからこの名前が付いたそうです。

将棋岩

「石見銀山街道温泉津・沖泊道」の「将棋岩」は、1589年の山津波によって堂床山から流れ出した多数の巨石のことです。

当時、「石見銀山街道温泉津・沖泊道」を往来した馬子たちが、この巨石の平らな部分で将棋を指していたと言われています。

清水の金柄杓

「石見銀山街道温泉津・沖泊道」の「清水の金柄杓」は、「石見銀山街道温泉津・沖泊道」の清水地区で湧き出る泉のことです。

当時、大森代官が「堂床山」からの湧き水を飲んで、そのおいしさに感銘を受けて金属製の柄杓(ひしゃく)を奉納したことから、この名前がついたと言われています。

松山の階段道

「石見銀山街道温泉津・沖泊道」の「松山の階段道」は、コケのむしている道で、当時の面影がよく残っています。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その12:鞆ケ浦(ともがうら)

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の「鞆ケ浦」は、「銀山柵内」から北西6キロメートルの日本海沿岸にあり、16世紀前半に、銀や銀鉱石が九州の博多に積み出されていた港で、銀山柵内から日本海へ出る最短の搬出路です。

「鞆ケ浦」には、「石見銀山」を発見したとされる「神屋寿禎」が建立したと言われている「厳島神社」などが残っています。

記録によると、まだ銀山が開発されてばかりの頃、博多から多くの商船が銀鉱石を求めて来航したと記されています。

この「鞆ケ浦」地域には、湾の両岸にある船の係留施設や海上の交通安全を祈願した神社、谷部の集落、銀鉱石の貯蔵や支配管理施設の伝承地、船舶用の井戸などが残されています。

そんな「鞆ケ浦」は、江戸初期に漁村化して以後、大規模な開発がなされることもなく、中世の港湾の形態を残すにとどまりました。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その13:沖泊(おきどまり)

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の「沖泊」は、島根県大田市温泉津町の日本海に面した湾と集落のことです。

「沖泊」は、二股の谷状地形で東西方向に奥行き約150メートル、幅平均40メートルの傾斜地で湾は奥行き約440メートル、湾口幅約80メートル、推進4~5メートルです。

当時、「石見銀山」で産出した銀は、銀山街道で陸送され、その後、「沖泊」で舟に積み出して博多を経由して輸出していました。

現在、「沖泊」は、10戸ほどが残る程度ですが、舟を係留するための鼻ぐり岩が数多く残っており、この「沖泊」が天然の良港だったことがうかがえます。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の特徴・おすすめスポット その14:温泉津(ゆのつ)重要伝統的建造物群保存地区

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 の「温泉津重要伝統的建造物群保存地区」は、中世から「石見銀山」の外港として発展した天然温泉の湧き出る港町のことです。

「温泉津重要伝統的建造物群保存地区」は、およそ約80メートルの狭い谷筋が切り開かれてできた町並みで、温泉街中央部には2つの共同浴場「元湯泉薬湯」と「薬師湯」があります。

また、江戸時代末期から昭和初期にかけて建てられた町屋や温泉旅館を中心とした旅館や社寺などの建造物が軒を連ね、周囲の海や山とあいまって、港町・温泉町の景観が形成されています。

この「温泉津重要伝統的建造物群保存地区」の周辺には、「石見銀山」ゆかりの社寺などが点在しているので、散策にもオススメです。

なお、2012年に「温泉津街並み環境整備委員会」が結成され、この地域の空家対策・情報共有・観光振興など、町づくりのビジョンや住民憲章等の検討が行われています。

そんな「温泉津重要伝統的建造物群保存地区」の主な見どころは、大きく5つあります。

1)薬師湯旧館
2)恵珖寺
3)西楽寺
4)龍御前神社
5)内藤家庄屋屋敷

薬師湯旧館

「温泉津重要伝統的建造物群保存地区」の「薬師湯旧館」は、温泉津に現存する温泉施設として最古のもので、建物の内部に柱など昔の残りを残しながら、1919年にカフェに改築されました。

正面から向かって右側は、ギャラリーで、かつては「女湯」があり、左側の家具調度品のあるカフェ内蔵丞(くらのじょう)は、「男湯更衣室」のあったところです。

そんな大正ロマンや昭和のレトロな雰囲気の漂う「薬師湯旧館」は、日が暮れると建物に明かりがともり、外観も昼間とは違って幻想的で、前の路地からの「薬師湯旧館」が、温泉街の撮影ベストスポットになっています。

なお、この「薬師湯旧館」では、石見銀山・世界遺産にゆかりのある内藤家が口伝で伝えたとされる「奉行飯」を味わうことができます。

恵珖寺(えこうじ)

「温泉津重要伝統的建造物群保存地区」の「恵珖寺」は、石見銀山の「妙像寺」(みょうぞうじ)で行われた僧「日慈」(にちじ)の説法に感動した「恵珖寺」の信徒が「温泉津」に迎え、1525年に真言宗の寺を日蓮宗の寺院に改宗してお堂を創建したと伝えられています。

「恵珖寺」は、「石見銀山」の初代奉行「大久保石見守長保」が「殺生禁断の制令」を出したり、生前に自分で建てた「逆修墓」(ぎゃくしゅばか)で知られています。

1587年に、「恵珖寺」では、温泉津を訪ねた「細川幽斎」によって「百歌連歌の会」が開催され、8人で連作した歌は百韻あるため、終日作句に興じていたことが推測される記録が残っています。

そんな「恵珖寺」は、本堂の裏手に多くの廻船問屋の墓標が並ぶ廟式の墓地があり、刻まれている屋号から北前船(きたまえぶね)によって全国的な交流があったことがうかがえます。

西楽寺(さいらくじ)

「温泉津重要伝統的建造物群保存地区」の「西楽寺」は、江戸初期に建造された寺院で、開祖は禅宗で、当初は「覚兆庵」と呼ばれていました。

その後、1521年に「本願寺」9世の「実如法主」(じつにょほつす)の説法にひかれて真宗となり、大阪の「石山合戦」の際に送られた「顕如上人」(けんにょしょうにん)の依頼状が残されています。

その後、1603年に「西楽寺」と改称され、1831年に12世「一成」住職によって再建され、現在も温泉街にひっそりと聖域を作り、本堂は厳かな雰囲気を漂わせています。

キーワードチェック:石山合戦
石山合戦は、1570年~1580年にかけて行われた浄土真宗「本願寺」と「織田信長」の戦いで、法主である「顕如上人」が石山本願寺にこもって闘ったと言われています。

龍御前神社(たつのごぜんじんじゃ)

「温泉津重要伝統的建造物群保存地区」の「龍御前神社」は、温泉街を見下ろす岩山にあり、「石見銀山」が栄えていた当時、温泉津港に出入りしていた「北前船」の守り神として信仰を集めていました。

もともとは、「龍御前神社」の背後にある大きな巨岩が、神の光臨する「盤座」(いわくら)として崇拝されていたとものと考えられており、境内には、今も「北前船」の船主から寄進された石灯籠や船絵馬が残っています。

内藤家庄屋屋敷

「温泉津重要伝統的建造物群保存地区」の「内藤家庄屋屋敷」は、島根県大田市温泉津町にある内藤家の古民家で、現在の建物は、1747年の温泉津大火の直後に再建されたものです。

所有者の「内藤家」は、「毛利元就」の家臣、毛利水軍「御三家」の一家で、「石見銀山」で産出された銀の積出港の「温泉津港」は軍事的にも重要拠点だった為、「元就」は、「鵜丸城」を築かせて内藤家にこの地を守らせました。

「内藤家」は、江戸時代より代々庄屋を務め、廻船問屋や酒造業を営む豪商として大きな力を持ち、年寄などの重要な職を歴任しました。

「内藤家庄屋屋敷」は、このような「内藤家」にまつわる400年の歴史を伝えています。

そんな「内藤家庄屋屋敷」は、敷地正面に表門と庭園があり、その背後には「なまこ壁」の土蔵群があり、格子窓や中2階の虫籠窓(むしこまど)、主屋の耐火建築の塗籠造(ぬりかごづくり)などから、当時の繁栄ぶりがうかがえます。

なお、1600年の「関が原の戦い」によって、毛利家は西軍に組みした為に領土を大きく削られて周防国・長門国の2国となりましたが、「内藤家」は、この地に土着しました。

観光課や公式サイトからの情報まとめ (動画など)

公式サイト
しまね観光ナビ
https://www.kankou-shimane.com/

石見銀山世界遺産センター
https://ginzan.city.ohda.lg.jp/

まとめ

いかがでしたか。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」 は、戦国時代後期から江戸時代にかけて最盛期を迎えた「石見銀山」の発展・繁栄の様子が町並みや港に残っており、坑道や民家から当時の人々の暮らしぶりがうかがえます。

世界遺産にも登録された「石見銀山遺跡とその文化的景観」 をまだ訪れたことがない方は、ぜひ一度、足を運んでみてはいかがでしょうか。

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