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「京都古都の文化財」の特徴・おすすめスポット その12:天龍寺
「古都京都の文化財」の「天龍寺」は、正式名称を「霊亀山天龍資聖禅寺」(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と言い、かつては嵐山一帯が「天龍寺」の境内でした。
1339年に「足利尊氏」が「後醍醐天皇」の菩提を弔うために開基、「夢窓疎石」が開山して1345年に完成しましたが、創建する際の建設費用が足りず、「元」との貿易を再開して建立費用に当て、「天龍寺船」が始まったと言われています。
この「天龍寺」は幾度となく火災に見舞われ、1585年に「豊臣秀吉」の寄進によって復興が開始されましたが、その後も火災が起き、1864年には再建の最中に再び伽藍が焼失しました。
その後、歴代の住持によって復興がはじまりましたが、1877年には「上地令」によって境内が縮小されて以前の10分の1ほどの広さになり、現在の建物は明治以降に建てられました。
そんな「天龍寺」の見どころは、下記の6つです。
法堂(はっとう)
「天龍寺」の「法堂」は、1864年に焼失し、現在は、江戸後期建立の「雲居庵禅堂」(選佛場)を明治時代に移築し、「天龍寺」は一般的な仏に代わって住職が説法する場所と仏殿を兼ねています。
この「法堂」の内部には、「光厳上皇」、歴代の住職、「夢窓疎石」、「足利尊氏」の位牌があり、「釈迦三尊像」が安置され、どこから見ても龍から睨まれる「八方睨み」の「雲竜図」が有名です。
この「雲竜図」は、かつて「鈴木松年」によって描かれましたが、火災で修復が不可能となったため、1997年に「加山又造」によって描かれました。
なお、「雲竜図」は、通常は土日祝日に公開されますが、特別公開時には毎日鑑賞できます。
方丈
「天龍寺」の「大方丈」と「小方丈」は、「天龍寺」の最大の建造物で、1899年に「大方丈」、1924年に「小方丈」が建てられました
「大方丈」は、平安時代後期に作られて何度も火災から免れた「釈迦如来坐像」が本尊に安置され、この「釈迦如来坐像」は重要文化財に指定されています。
「小方丈」は、書院になっていて、来客や接待、行事、法要などに使用されます。
庫裏(くり)
「天龍寺」の「庫裏」は、1899年に建造され、「庫裏」は一般には台所のことですが、「天龍寺」では、寺務所も兼ねています。
この「庫裏」は、「方丈」や「客殿」と棟続きの切妻造で、正面玄関には「天龍寺」が達磨宗・禅宗であることを示す「平田精耕」の描いた達磨図があります。
庭園
「天龍寺」の「庭園」は、「夢石疎石」が作庭し、日本で最初に史跡・特別名勝として指定され、前庭と曹源池庭園(そうげんちていえん)があります。
前庭は、放生池を中心とし、曹源池庭園は、「曹源池」を中心とする池泉回遊式庭園で、正面には亀山や小倉山、左には嵐山を借景した借景式庭園にもなっています。
「曹源池」は、池の中から「曹源一滴」と書かれた石碑が現れたことが由来で、中央正面には2枚の巨岩による龍門の滝があり、滝の流れの横に鯉魚石が置かれ、龍に変化する途中の姿が表現されているそうです。
勅使門
「天龍寺」の「勅使門」は、「天龍寺」で最も古い桃山様式が細部に見られる建築物で、1641年に「明照院」の禁門を移築したと伝えられ、天皇の勅使が通る際に開けられました。
多宝殿
「天龍寺」の「多宝殿」は、1934年に建造され、かつては亀山上皇が離宮を営んだ際、後醍醐天皇が学問所とした場所で、内部には後醍醐天皇の木像や歴代天皇の位牌が祀られています。
この「多宝殿」は、紫宸殿の様式を模したとされ、当時の貴族邸宅の様子がうかがえます。
春には、しだれ桜が華やかに咲き誇り、「多宝殿」の後方には「望京の丘」と呼ばれる丘があり、景色を楽しむことができます。
このほか、「天竜寺」には、1994年に記念事業として建てられた茶室「祥雲閣」「甘雨亭」や、2000年に開山夢窓国師650年遠諱記念の事業事業として建てられた精進料理をいただける「龍門亭」なども楽しむことができます。
天龍寺へのアクセス
住所:京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
電車でのアクセス
- 京福電鉄嵐山線「嵐山駅」下車
- JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」下車
- 阪急電車「嵐山駅」下車
バスでのアクセス:
- 市バス 11、28、93番「嵐山天龍寺前」下車
- 京都バス 61、72、83番「京福嵐山駅前」下車
「京都古都の文化財」の特徴・おすすめスポット その13:鹿苑寺(金閣寺)
「京都古都の文化財」の「鹿苑寺」は、大文字山の南麓にあり、通称「金閣寺」と呼ばれ、臨済宗相国寺の塔頭寺院の1つです。
かつて、この地に鎌倉時代の藤原氏の公卿「西園寺公経」(さいおんじ きみつね)が「西園寺」を建造しましたが、鎌倉幕府が滅亡して荒廃しました。
その後、室町幕府に三代目将軍「足利義満」がこの土地を譲り受け、「北山殿」と呼ばれる大規模な邸宅を建造したことが「金閣寺」の起源です。
「足利義満」は、「北山殿」で執務を行い、死去した後は遺言によって「禅寺」として生まれ変わり、「足利義満」の法号である「鹿苑寺殿」に由来して「鹿苑寺」と呼ばれるようになりました。
なお、「鹿苑寺」も「応仁の乱」によって多くの建物が焼失し、江戸時代に再建されました。
明治時代には「廃仏毀釈」の令が発せられましたが、「鹿苑寺」は「舎利殿」(金閣)のある境内を一般公開して、拝観料によって経済基盤を築きました。
この「鹿苑寺」の見どころは、下記の6つです。
舎利殿
「鹿苑寺」の「舎利殿」は、「鹿苑寺」が「金閣寺」と呼ばれる由来になった建造物で、「金閣寺」のイメージは、黄金に輝いている「舎利殿」であると言えます。
この「舎利殿」は、1397年の室町時代に「足利義満」が建立、1408年に完成し、1897年に特別保護建造物に指定されています。
「舎利殿」は、三層構造で、各層の様式が下記の通り、異なっていることが特徴です。
寝殿造りの法水院(ほっすいいん)
武家造りの潮音洞(ちょうおんどう)
禅宗仏殿造りの究竟頂(くっきょうちょう)
この「舎利殿」の二層と三層には、漆の地に純金箔が貼られて金色に燦然と輝き、「鹿苑寺」のシンボルとなっています。
鏡湖池と庭園
「鹿苑寺」の「鏡湖池と庭園」は、「舎利殿」の目前に広がり、西には衣笠山を借景とする池泉回遊式庭園と呼ばれる様式の庭園があり、特別史跡および特別名勝に指定されています。
この「鏡湖池」には、葦原島・鶴島・亀島など大小の島が存在し、境内の半分以上を占め、当時、「足利義満」に奉納した大名たちの名を取った畠山石、赤松石、細川石などの石が置かれています。
不動堂
「鹿苑寺」の「不動堂」は、1225年の鎌倉時代に建造され、境内の中央より北東に位置しています。
本尊の石像不動明王像は非公開で、木造の不動明王立像は重要文化財に指定されています。
この「不動堂」も「応仁の乱」で焼失し、1573年~1592年の戦国時代に再建され、「鹿苑寺」に現存する最も古い建造物です。
方丈
「鹿苑寺」の「方丈」は、境内のほぼ中央に位置し、一般には寺の本堂にあたる建物で、1602年の江戸時代初期に金閣寺の僧侶「西笑承兌」(さいしょうじょうたい)が建造しました。
現存している「方丈」は、1678年に「後水尾天皇」によって新築されたもので、国の重要文化財に指定されています。
この「方丈」は、入母屋造と呼ばれる建築様式で、正面の扉などに「杉戸絵」が描かれています。
陸舟の松
「鹿苑寺」の「陸舟の松」は、「足利義満」が自ら植えたとされる松で、「京都三松」の1つです。
もともとは、義満が育てていた盆栽で、見た目が舟のような形状になっていることからこの名前がつけられました。
夕佳亭
「鹿苑寺」の「夕佳亭」は、江戸時代の茶道家「金森宗和」が建築した数寄屋造りの様式で、舎利殿の北になる茶室のある小屋です。
この「夕佳亭」は、小高いところに立地し、晴れた夕暮れ時の眺望が美しいことから、この名前がついたと言われています。
「夕佳亭」の正面には、「南天の床柱」と呼ばれる床柱があり、その近くに椅子の形をした「貴人榻」(きじんとう)と呼ばれる石があります。
なお、「夕佳亭」は、明治初期に火災で焼失し、現在の建物は、明治7年に再建されました。
鹿苑寺へのアクセス
住所:京都府京都市北区金閣寺町1
電車・バスでのアクセス
- 「京都駅」から京都市営バス 101、205号系統「金閣寺道」下車
- 「四条河原町」から京都市営バス 205号系統「金閣寺道」下車
- 「四条河原町」から京都市営バス 12、59号系統「金閣寺前」下車
- 「三条京阪」から京都市営バス 12、59号系統「金閣寺前」下車
「京都古都の文化財」の特徴・おすすめスポット その14:慈照寺(銀閣寺)
「古都京都の文化財」の「慈照寺」は、正式名称を「東山慈照寺」と言う臨済宗相国寺派の寺院で、「銀閣寺」の通称で親しまれています。
この「慈照寺」は、室町幕府の第8代目将軍「足利義政」が、祖父である「足利義満」の建造した「北山山荘」(金閣寺)を模して「東山山荘」を建てたことに由来しています。
「慈照寺」の完成を見ることなく「足利義政」は死去し、その遺言によって禅宗となり、義政の法号「慈照院」にちなんで「慈照寺」の名がつきました。
「慈照寺」の「観音殿」が銀閣と呼ばれることから、寺全体が「銀閣寺」の通称で呼ばれるようになりました。
「足利義満」によって建造された黄金色の華やかな「金閣寺」に対し、「足利義政」によって建造された「銀閣寺」は、落ち着いたたたずまいを見せています。
そんな「銀閣寺」の見どころは、下記の6つです。
観音殿
「慈照寺」の「観音殿」は、銀閣と呼ばれる二層構造の建物で、1階は、「心空殿」と呼ばれる住宅のような造りで、2階は、「潮音閣」と呼ばれる禅宗の仏堂になっています。
この「観音殿」は、わび・寂びの感じられる閑静な雰囲気で、雪化粧のほどこされた冬の「銀閣寺」は、筆舌に尽くしがたいほどの美しさです。
向月台・銀紗灘(ぎんしゃだん)
「慈照寺」の「向月台」は、富士山を表しているとされる円錐形に積み上げた砂で、高さ約1.8メートル、底の部分の直径は約3メートル、上部の直径は約1.2メートルあります。
「慈照寺」の「銀紗灘」は、「向月台」の周囲に砂で作った模様のことで波を表し、中国杭州にある世界遺産の「西湖」を模して作られたそうです。
「向月台」と「銀紗灘」は、いずれも月光を反射して「銀閣」を照らしており、江戸時代初期に東山に昇る月を眺めるために造られたと伝えられています。
池泉回遊式庭園
「慈照寺」の「池泉回遊式庭園」は、「苔寺」と呼ばれる「西芳寺」の庭園を模したと言われ、池に石橋がかかり、諸大名が献上した「大内石」や「白鶴島」などが置かれています。
なお、この庭園は、江戸時代に大々的に改修されました。
東求堂
「慈照寺」の「東求堂」は、「足利義政」の「持仏堂」として作られたもので、「東求堂」の内部には日本で最古とされる茶室「同仁斎」があり、国宝に指定されています。
「同仁斎」は、書院造の原形となった4畳半ほどの小部屋で、華道や茶道などの東山文化を生み出した場所でもあります。
なお、「東求堂」の内部は、春と秋の特別公開の際に見学できます。
展望所
「慈照寺」の「展望所」は、境内の東側にある高台で、「慈照寺」全体にとどまらず、京都市街を見渡すことができます。
方丈
「慈照寺」の「方丈」は、住職の住まいですが、「慈照寺」では本堂の役割を果たしています。
この「方丈」は、黒瓦の建物で、本尊には「釈迦牟尼仏」が安置され、「与謝蕪村」と「池大雅」によって描かれた襖絵が置かれています。
また、「方丈」からは、目前に広がる「銀沙灘」や「向月台」を眺望できます。
慈照寺へのアクセス
住所:京都府京都市左京区銀閣寺町2
電車・バスでのアクセス
- 「京都駅」から京都市営バス 100号系統「銀閣寺前」下車
- 「京都駅」から京都バス 18、51系統「銀閣寺道」下車
- 「四条河原町」から京都市営バス 32号系統「銀閣寺前」下車
- 「四条河原町」から京都バス 55系統「銀閣寺道」下車
- 「三条京阪」から京阪バス 56、56A系統「銀閣寺道」下車
「京都古都の文化財」の特徴・おすすめスポット その15:龍安寺
「京都古都の文化財」の「龍安寺」は、臨済宗妙心寺派の寺院で、1450年に「細川勝元」が開基し、初代住職の「義天玄承」が開山しました。
その後、1467年の「応仁の乱」によって焼失し、1499年に「細川勝元」の息子「細川政元」によって復興、「特芳禅傑」が中興開山となりました。
この復興時に、「龍安寺の石庭」が造られ、「織田信長」や「豊臣秀吉」を始めとする戦国時代の人々が足しげく訪れたと言われています。
江戸時代には、1797年の火災で「龍安寺」の「方丈」「開山堂」「仏殿」は、再び焼失しましたが、1975年に来日したイギリスの「エリザベス2世」が「石庭」を絶賛したことから「龍安寺」は広く知られるようになり、保護されるようになりました。
この「龍安寺」の建物には、重要文化財に指定されている「方丈」や「勅使門」、玄関として使われていた「庫裏」、「方丈」の裏側にある「蹲踞」(つくばい)と呼ばれる手水鉢があります。
そんな「龍安寺」の見どころは、先にも出て来た「石庭」です。
「龍安寺」の「石庭」は、幅25メートル、奥行き10メートルの庭には、白い砂が一面に敷き詰められ、「石庭」を囲う「油土塀」は庭が広く見えるよう遠近法によって設計されています。
この「石庭」には、全部で15個の石が、東から数えて5個、2個、3個、2個、3個にまとまって置かれていますが、どの角度から観ても14個しか見えない不思議な造りも、「龍安寺」の「石庭」の魅力になっています。
また、「龍安寺」は、「石庭」の石を7個、5個、3個の配置であると解釈した「七五三の庭」や、中国の逸話「虎の子渡し」に基づいた「虎の子渡しの庭」とも呼ばれています。
なお、「石庭」に向かってしだれ桜が咲きほこる春は、特に人気の観光スポットになっています。
龍安寺へのアクセス
住所:京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13
バスでのアクセス
- JR・近畿日本鉄道「京都駅」から市バス 50番系統「立命館大学前」下車
- 阪急電鉄「大宮駅」から市バス 55番系統「立命館大学前」下車
- 京阪電鉄「三条駅」から市バス 59万頃棟「龍安寺前」下車
電車でのアクセス
京福電鉄「龍安寺駅」下車
「京都古都の文化財」の特徴・おすすめスポット その16:本願寺
「京都古都の文化財」の「本願寺」は、「西本願寺」と「東本願寺」がありますが、「古都京都の文化財」として登録されているのは「西本願寺」で、正式名称は「龍谷山本願寺」す。
この「西本願寺」は、日本でも最大の宗教宗派と言われ、浄土真宗本願寺の総本山で、開基は、浄土真宗の開祖である「親鸞聖人」のご息女「覚信尼」であると伝えられています。
「本願寺」には、波瀾万丈の歴史があります。
1321年に初めて「本願寺」と公称され、1465年に比叡山の宗徒が「本願寺」を破却、1478年には浄土真宗の「蓮如上人」が山科に「本願寺」を再興、1532年に「六角定頼」と法華宗徒などによって焼失、大阪石山に拠点が移されます。
1570年に「織田信長」が勢力を増した大阪石山「本願寺」を攻撃し、10年の攻防の末に講和すると、1591年に「本願寺」は京都に復帰しました。
この頃、大阪石山「本願寺」の退去にあたって、「顕如上人」と「准如上人」による退去派と、徹底抗戦をとなえた「教如上人」の籠城派に根深い意見の対立があったようです。
1602年、その様子に注目した徳川家康が、浄土真宗の勢力を分断する意図もあり、京都の烏丸七条に寺地を寄進して「東本願寺」と「大谷派本願寺」が創建され、これが後に「西本願寺」と「東本願寺」に分立しました。
1881年には、「西本願寺」が「本願寺」を公称、浄土真宗の議会組織である「宗会」を開設しました。
このような歴史を持つ「本願寺」の見どころは、下記の11スポットです。
御影堂
「本願寺」の「御影堂」は、東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートルあり、1636年に再建されたもので、国宝に指定されています。
この「御影堂」は、天井が高く、中央に「親鸞聖人」の木像、左右に「本願寺歴代門主」の御影が安置されています。
「西本願寺」の重要な行事は、この「御影堂」で行われており、お勧めの観光スポットです。
御影堂門
「西本願寺」の「御影堂門」は、堀川通りに面する一番大きな門で、1645年の江戸時代前期に建立されました。
この「御影堂門」は、間口が約11メートル、奥行きが約7メートル、高さが約14メートルの総欅造りで、四脚門、入母屋造、本瓦葺には彫刻や錺金具などが装飾されています。
阿弥陀堂
「西本願寺」の「阿弥陀堂」は、江戸時代に再建されたもので、南西42メートル、南北45メートル、高さ25メートルある本堂で、国宝に指定されています。
阿弥陀堂門
「西本願寺」の「阿弥陀堂門」は、屋根が桧皮葺(ひわだぶき)の江戸時代に建てられた門で、重要文化財に指定されています。
1983年に、檜皮の一部、金箔押、飾金具などが補修・修復されましたが、創建当初の威厳や迫力のある姿が維持されています。
能舞台
「西本願寺」の「能舞台」には、「南能舞台」と「北能舞台」とがあります。
「南能舞台」は、現存している日本で最古の能舞台で対面所前にあり、毎年5月21日には「親鸞聖人」の誕生を祝う行事「宗祖降誕会」(しょうそごうたんえ)が行われます。
「北能舞台」は、唯一、国宝に指定されている能舞台で、屋根の一部にある懸魚(げぎょ)には、1581年のに書かれた墨書の紙片があります。
飛雲閣
「本願寺」の「飛雲閣」は、「豊臣秀吉」が建てた「聚楽第」の一部を遷したといわれ、京都三名閣の1つです。
この「飛雲閣」は、厳かな雰囲気のある三層構造による楼閣建築で、非公開でもあることから伏見城からの移築説などもあり、謎の多い建物とも言われています。
唐門
「本願寺」の「唐門」は、その見事さに日が暮れるのを忘れて見入ってしまうということから「日暮らし門」との別称があります。
この「唐門」は、全面に桃山時代を象徴する、色鮮やかで豪華絢爛な装飾や彫刻がほどこされた檜皮葺きで唐破風の門で、伏見城の遺構とも言われています。
親鸞聖人影像「鏡の御影」
「本願寺」の親鸞聖人影像「鏡の御影」は、「親鸞聖人」晩年の肖像画です。
似絵(にせえ)の名手と言われる「専阿弥陀仏」(せんあみだぶつ)という画僧が描いたとされ、生存中の「親鸞聖人」を忠実に写実していると言われています。
この「鏡の御影」は、「親鸞聖人」の個性までが伝わるほどの生き生きとしたリアルさが、まるで鏡で見ているようであることから、この名がつけられ、鎌倉時代の肖像画の傑作といわれています。
経蔵
「本願寺」の「経蔵」は、宗主「寂如」が建設を計画し、1678年に完成されました。
この「経蔵」には、1648年に第13代良如宗主が購入した天海開版「一切経(大蔵経)」が納められています。
なお、「経蔵」の内部に八角形の回転式書棚が設置されていることから、「転輪蔵」とも呼ばれています。
大鼓楼
「本願寺」の「大鼓楼」は、東北の角にあり、重要文化財に指定されています。
この「大鼓楼」の内部には大太鼓があり、江戸時代まで周囲に時刻を知らせるために使われていました。
幕末の時代には、新選組が「本願寺」を屯所としていた時期があり、この「大鼓楼」には新撰組による刀傷が残っていると言われています。
三十六人家集
「本願寺」の「三十六家集」は、ほぼ完備に近い写本で、奈良時代から平安時代にかけて活躍した歌人三十六歌仙の歌を集めた最も古い歌集です。
この「三十六人家集」全39帖のなかで、当初に作成された32帖と写本にあたる5帖が国宝に指定されています。
教行信証
「本願寺」の「教行信証」は、正式名称を「顕浄土真実教行証文類」と言い、浄土真宗の教義を組織体系化した「親鸞聖人」の著書で、重要文化財に指定されています。
この「教行信証」は、「親鸞聖人」が60歳の頃より執筆を開始し、晩年まで何度も加筆・修正を繰り返し、推敲を重ねて完成したと言われています。
ちなみに、西本願寺では「教行信証」が清書本と称されているのに対し、「東本願寺」には真宗大谷派の所有している「坂東本」があります。
本願寺へのアクセス
住所:京都府京都市下京区 堀川通花屋町下ル
電車・バスでのアクセス
- JR・近鉄「京都駅」より市バス「京都駅前」9番、28番、75番(西賀茂車庫行など)に乗車、「西本願寺前」で下車。
- 阪急電車「河原町駅」より市バス「四条河原町」207番に乗車、「島原口」で下車。
- 「大宮駅」より市バス「四条大宮」18番、71番、206番、207番に乗車、「島原口」で下車。
- 京阪電車「七条駅」より市バス「七条京阪前」206番、208番に乗車、「七条堀川」で下車。
「京都古都の文化財」の特徴・おすすめスポット その17:二条城
「京都古都の文化財」の「二条城」は、現在の正式名称を「元離宮二条城」と言います。
この「二条城」は、江戸幕府の初代将軍「徳川家康」が築城し、天皇の住む京都御所の守護や、将軍上洛の際に宿泊所として使用されました。
1611年に「徳川家康」が「二条城」の二の丸御殿で「豊臣秀頼」と会見を持ち、秀頼の成長ぶりに驚いて豊臣氏を滅ぼす決意をしたことから、「大阪の陣」のきっかけとなった場所とも言われています。
その後、第三代将軍「徳川家光」が、「後水尾天皇」の行幸のために大規模な改修を行い、壮麗な城に天皇を迎えて江戸幕府の安定を世間に知らしめたそうです。
1867年には、第15代将軍である「徳川慶喜」が「二条城」の二の丸御殿の大広間で「大政奉還」の意思を表明し、「二条城」は、徳川家の栄枯盛衰の歴史を見つめてきた城と言えるでしょう。
そんな「二条城」の見どころは、「唐門」と「二の丸御殿」です。
唐門
「二条城」の「唐門」は、同時代に創建された中では、国内でも最大級と言われています。
この「唐門」は、切妻造で、唐破風や極彩色できらびやかな彫刻が特徴の四脚門です。
「元離宮二条城」を正式名称とする「二条城」は、明治維新後に徳川家から皇室の所有へと移り、「二条離宮」と名を変えた時期がありました。
その後、旧宮内省から京都市へ下賜されて、現在は京都市の所有になっています。
そのような経緯を表しているのか、この「唐門」は、徳川家の城であった筈なのに徳川家の「葵紋」ではなく、皇室の「菊の御紋」がほどこされています。
2013年に行われた修復工事の際には、菊の御紋下から葵の御紋が出てきたそうです。
なお、「二条城」の全てが菊の御紋に差替えられたわけではなく、葵の御紋もいくつか残っています。
二の丸御殿
「二条城」の「二の丸御殿」は、江戸初期に完成され、当時の書院造の代表でもあります。
当時からの天守を残しているお城は日本で12しかなく、「現存十二天守」とも呼ばれています。
「二の丸御殿」は、全6棟の建物からなり、城郭が残っている日本で唯一の御殿群として国宝に指定されています。
その内部には、部屋数が33あり、約800畳の広さで、日本の絵画史上で最大の画派とも言われる狩野派によって描かれた障壁画があり、色とりどりの欄間彫刻や飾金具によって装飾されています。
「二の丸御殿」の見どころについて、大きく5つのエリアに分けてご紹介します。
遠侍一の間・二の間・三の間
「二の丸御殿」の「遠待」は、「二の丸御殿」でも最大の建物で、来殿者が控える部屋です。
一の間・二の間・三の間・勅使の間・若松の間・芙蓉の間・柳の間・帳台の間と納戸によって構成されています。
「一の間」は、襖や壁に虎が描かれていることから「虎の間」とも呼ばれ、徳川家の持つ権力の偉大さを来殿者に実感させたことでしょう。
「勅使の間」は、調停からの使者である勅使を迎える部屋で、各部屋の障壁画には、公家向けの趣を持つ植物の図柄が題材にされています。
式台「式台の間」「老中の間」
「二の丸御殿」の「式台」は、表の「式台の間」と裏の「老中の間」で構成され、将軍への用件や献上物を取次ぐ部屋です。
「式台の間」は、老中と大名が挨拶したり、将軍への取次ぎが行われたりしたと言われ、障壁画には永遠に続く繁栄を象徴する植物「松」が描かれています。
「老中の間」は、老中が控えていた部屋で3部屋あります。一の間と二の間には「芦雁図」が、三の間には「柳鷺図」が描かれ、長押上は質素な白壁の造りです。
大広間 一の間・二の間・三の間・四の間
「二の丸御殿」の「大広間」は、将軍と大名・公卿衆などが公式に対面する部屋で、一の間・二の間・三の間・四の間・帳台の間・納戸があります。
床の間、違棚、付書院、帳台構など、書院造りの特徴を備え、「狩野探幽」筆の障壁画があります。
対面の際、将軍は一の間で南を向いて座り、床の間に三幅対の掛軸をかけ、違棚や付書院には工芸品などを飾ったとされています。
三の間には、厚さ35センチの檜の板の両面に透かし彫りをほどこした彫刻や、花熨斗形(はなのしがた)の長押金具があります。
四の間は、将軍が上洛のときに武器をおさめた部屋と伝えられ、桃山時代の様式を取り入れた大きな松と雄大な鷹が描かれた障壁画「松鷹図」は、二の丸御殿の中で最も有名です。
黒書院
「二の丸御殿」の「黒書院」は、江戸時代には「小広間」と呼ばれ、一の間・二の間・三の間・四の間・帳台の間・牡丹の間があります。
この「黒書院」は、「大広間」に次いで、将軍と徳川家と親しい大名や高位の公家などとの公式の対面に使用された部屋です。
この「黒書院」の「一の間」と「二の間」の壁には、満開の桜が描かれていることから「桜の間」と呼ばれています。
また、襖絵は「狩野探幽」の弟「狩野尚信」によるもので、将軍が背にする壁面には雪をかすかに残す松の枝や梅の花、散りゆく桜が描かれ、季節の移ろいが表現されています。
白書院
「二の丸御殿」の「白書院」は、江戸時代には「御座の間」と呼ばれ、一の間・二の間・三の間・四の間・帳台の間・付属の間で構成されています。
この「白書院」は、将軍の居間と寝室として使用されていたと伝えられ、他の棟とは趣が異なり、水墨画に包まれた空間が落ち着いた印象を与えています。
水墨画の図柄には、中国由来の題材で、一の間と二の間は中国の大風景名勝の1つ「西湖」が、三の間には伝説や歴史上の人物が描かれています。
二条城へのアクセス
住所:京都府京都市中京区二条城町541
電車でのアクセス
- 京都駅(地下鉄烏丸線)ー烏丸御池駅(地下鉄東西線)「二条城前駅」
- 京都駅(JR嵯峨野線)ー「二条駅」
- 三条京阪駅(地下鉄東西線)ー「二条城前駅」
バスでのアクセス
- 京都駅前(市バス9、50、101号系統、急行111号系統)ー「二条城前」
- 四条烏丸(市バス12、101号系統)ー「二条城前」
自動車でのアクセス
名神高速道路京都東ICまたは京都南IC(一般道)ー二条城
まとめ
いかがでしたか。
「京都古都の文化財」は、全部で17施設もあり、国宝や重要文化財に指定されている文化財も数多くあります。
それぞれの施設が古い歴史とドラマを持っており、1日で全ての施設を観光するのは難しいかもしれません。
季節によって情緒あふれる景観をもたらす施設もありますので、それぞれの施設に適した季節ごとに訪れてみても良いかもしれません。
世界遺産にも登録された「京都古都の文化財」をまだ訪れたことがない方は、ぜひ、一度、足を運んでみてはいかがでしょうか。
観光課や公式サイトからの情報まとめ (動画など)
京都古都の文化財 公式サイト
http://www.pref.kyoto.jp/isan/
京都市情報館
https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005538.html