日本の世界遺産特集(8)「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群」

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」について

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」は、日本列島の北部領域「平泉」にあり、11世紀~12世紀には仏教の理想世界を目指した政治・行政上の拠点となっていました。

この「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」は、具体的には、「中尊寺」「毛越寺」「観自在王院跡」「無量光院跡」「金鶏山」と4つの庭園のことを言います。

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」の4つの庭園は、奥州藤原氏が、現世の仏国土(浄土)を象徴的に表現し、池泉・樹林・金鶏山頂付近に仏堂を配置することで理想郷の光景とするために造営されました。

さらに、この4つの庭園のうち3つは、神聖な山「金鶏山」に関連し、日本古来の概念である浄土思想と庭園・水・周辺の景観とが融合され、2つは、発掘調査で発見された多くの事項から復元され、他の2つは現在も地下に埋蔵されています。

かつては政治・行政上の重要な拠点だった「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」は、当時の財力や権力を反映させるとともに、日本の他の地域にある仏堂や庭園にも影響を与えています。

記載物件名:平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―
具体的な物件:中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山
所在地:岩手県平泉町
推薦年月:平成18年12月・平成22年1月
記載年月:平成23年6月
区分:文化遺産

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」の特徴・おすすめスポット その1:中尊寺

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」の「中尊寺」は、岩手県西磐井郡平泉町にあります。

山号は、「関山」(かんざん)、「藤原清衡」が開基した天台宗東北大本山の寺院で、奥州三十三観音番外札所で、平泉の「毛越寺」、松島の「瑞巌寺」、山形の「立石寺」とともに、「四寺廻廊」という巡礼コースを構成しています。

この「中尊寺」は、奥州藤原氏三代にゆかりのある寺として有名で、平安時代の美術・工芸および建築など、多くの文化財が発掘されています。

1189年に奥州藤原氏が滅亡した後、「中尊寺」は、「鳥羽法皇御願」の寺として「源頼朝」の庇護を得て存続します。

しかし、「頼朝」が1210年に興隆するよう命じていたにも関わらず、「中尊寺」は荒廃し、1337年の大きな火災で「金色堂」以外のほとんどが全焼しました。

江戸時代になると、仙台藩の伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立が行われ、「中尊寺」は、1654年から仙台・仙岳院が別当寺となり、1665年には江戸「寛永寺」の末寺となりました。

1689年に「奥の細道」の旅をしていた「松尾芭蕉」が、この「中尊寺」の荒廃ぶりを嘆いたことは、よく知られれています。

その後、1909年に本堂が再建、1958年に天台宗東北大本山の称号を許され、1962年より金色堂の解体修理が行われ、1968年にようやく創建当時の輝きを戻しました。

そんな「中尊寺」の見どころは、主に下記の5つです。

1)月見坂
2)弁慶堂
3)本堂
4)讃衡蔵(さんこうぞう)
5)金堂

月見坂

「中尊寺」の「月見坂」は、両側に樹齢300年~400年ほどの杉が林立する表参道です。

「金色堂」までの約860メートルある坂は、「松尾芭蕉」も歩いたと言われ、境内には「松尾芭蕉」の像が置かれています。

季節によって緑に包まれるこの参道は、とても風情があり、歩くと心が洗われると言われています。

弁慶堂

「中尊寺」の「弁慶堂」は、「月見坂」の途中にあります。

藤原氏は、三代目の「藤原秀衡」が「源義経」をかくまったことから滅亡へと向かいますが、この「弁慶堂」には、「源義経」とその忠臣「弁慶」の木像があります。

また、「弁慶」自身が彫ったと伝えられている、弁慶像が奉納されています。

本堂

「中尊寺」の「本堂」は、1909年に再建され、阿弥陀如来が安置されています。

この「本堂」には、天台宗総本山比叡山「延暦寺」から分火された「不滅の法灯」がともります。

なお、「本堂」では、坐禅や写経を体験することができます。

讃衡蔵(さんこうぞう)

「中尊寺」の「讃衡蔵」は、1955年に開館され、国宝に指定されている「三体の丈六仏」をはじめ、3,000点以上の貴重な国宝・文化財が収蔵・展示されています。

この「讃衡蔵」には、「中尊寺」のほかに「山内寺院」の文化財も収蔵・展示されており、現在の建物は、開山から1150年にあたる2000年に新築されています。

金色堂

「中尊寺」の最大の見どころである「金色堂」は、「藤原清衡」が建立した阿弥陀堂で、きらびやかな黄金文化を象徴し、極楽浄土が表現されています。

阿弥陀堂の中には藤原三代が祀られ、平安時代の浄土教建築を代表する建物の1つで、国宝に指定されています。

この「中尊寺」の内と外は、扉、壁、軒、縁、床面に至るまで、すべて漆塗りの上に金箔を貼って仕上げられています。

特に、蒔絵や螺鈿で美しく装飾された4本の「巻柱」は必見で、漆工芸で仏像が表現されている珍しいものです。

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」の特徴・おすすめスポット その2:毛越寺

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」の「毛越寺」(もうつうじ)は、日本の岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺院で、境内は、国の特別史跡に指定され、庭園は、特別名勝に指定されています。

山号は「医王山」(いおうざん)で、「中尊寺」と同年に「円仁」(慈覚大師)が開山したと伝えられています。

建築は平安様式で、この「毛越寺」も、平泉「中尊寺」、松島「瑞巌寺」、山形「立石寺」とともに巡礼コース「四寺廻廊」を構成しています。

この「毛越寺」は、創建後に大火での焼失によって荒廃しましたが、第2代奥州藤原氏「藤原基衡」夫妻と第3代「藤原秀衡」によって伽藍が再興され、当時は、「中尊寺」をしのぐ規模だった言われています。

その後、鎌倉幕府に保護されましたが、1226年に火災、1573年に戦国時代の兵火に見舞われ、長年の間、土壇と礎石を残すのみとなっていました。

江戸時代には、仙台藩領内となり、1661年~1672年 には、本寺とその周辺が水田化されましたが、伊達藩によって経済的に援助・保護されました。

明治後半に、「毛越寺」の南大門外側に新しい本堂や庫裏が建てられ、1921年に伊達一関藩・一関城の大手門を移して山門とされ、1989年に平安様式に則って本堂が再建されて現在に至っています。

そんな「毛越寺」の見どころは、大きく分けて3つあります。

1)浄土庭園
2)臨池伽藍跡
3)建造物

浄土庭園

「毛越寺」の「浄土庭園」は、さらに下記の6つのスポットがおすすめです。

1)花菖蒲園
2)築山
3)大泉が池
4)遣水
5)出島石組みと池中立石
6)洲浜

花菖蒲園

「浄土庭園」の「花菖蒲園」は、1953年に平泉町民の発案で開山堂前に「あやめ」(花菖蒲)を植えたことがきっかけで、翌年に東京の「明治神宮」から100種100株を譲り受けました。

今では、6月中旬から7月中旬までは、300種3万株の花菖蒲が咲き、「毛越寺あやめまつり」が開催されています。

このお祭りの期間中は、延年の舞公演や子ども写生会、邦楽演奏会なども開催されています。

築山

「浄土円」の「築山」は、「大泉ヶ池」の南西の隅にあり、池の水面より約4メートルほどの高さがあります。

この「築山」は、大小各種の石を水際から山頂近くまで立てて岩山を造り、深い淵に臨む断崖の景観を彷彿(ほうふつ)させています。

なお、この「築山」は、「作庭記」に記される「枯山水の様」の実例であると考えられています。

キーワードチェック:枯山水
枯山水は、池や遣水などの水を用いず、石や砂などで山水の風景を表現する庭園様式のことです。

大泉が池

「浄土庭園」の「大泉が池」は、庭園の中心にある東西約180メートル、南北約90メートルの池で、作庭当初の姿がうかがえます。

この「大泉が池」のほぼ中央部には、東西約70メートル、南北約30メートルの勾玉状の中島があり、池の周辺や中島にはすべて玉石が敷かれています。

古い記録には、昔は南大門前から中島南まで17間の反橋、金堂側から中島北まで10間の斜橋がかかっていたと記されています。

橋の四隅にある橋挟石や南にある反橋の橋杭は残存しており、橋の遺構としては、日本最古のものとされています。

なお、直径27センチある大面取の橋杭は、二本抜き取られて「毛越寺」内にある「宝物館」に陳列されています。

遣水

「浄土庭園」の「遣水」は、池の東北側にあり、池に水を引き入れるために造られるもので、平安時代の唯一の遺構で、全国でも極めて珍しいものです。

「作庭記」に記述されている四神相応・吉相の順流で、水路の流れに沿って水切り・水越し・水分けなどの石組が置かれています。

なお、この「浄土庭園」「遣水」では、毎年、新緑の頃に「 曲水(ごくすい)の宴」が開催されます。

出島石組と池中立石

「浄土庭園」の「出島石組と池中立石」は、「大泉が池」の東南岸にあります。

石組は、水辺から水中に突き出し、約2メートルほどの景石は、その先端の飛び島に据えられて池全体の景観を引き締め、庭園の美しい景観の一つとなっています。

洲浜

「浄土庭園」の「洲浜」は、「大泉が池」の築山と対照的に造られ、柔らかい曲線で描かれた砂洲と入江が美しい海岸線が表現されています。

この「洲浜」は、特に池底を浅くして玉石を広々と敷き詰め、水位の昇降に応じて現れるように造られています。

臨池伽藍跡(史跡)

「毛越寺」の「臨池伽藍跡」は、平安時代の堂塔伽藍を思い起こさせる境内の礎石などの遺構のことです。

これらは、国の特別史跡・特別名勝に指定され、優美な作庭造園の形状をとどめていることから、日本庭園史上、貴重な遺構として旧観に復されています。

「臨池伽藍跡」は、下記の5つのスポットがおすすめです。

1)嘉祥寺跡
2)講堂跡
3)南大門跡
4)金堂円隆寺跡
5)常行堂・法華堂跡

嘉祥寺跡

「臨池伽藍跡」の「嘉祥寺跡」は、「嘉祥寺」の建築跡のことで、礎石が完存するのことです。

「吾妻鏡」のなかでは、「嘉勝寺」と記載されています。

この「嘉祥寺跡」は、「毛越寺」の「金堂円隆寺」の西にある杉並木に囲まれ、「円隆寺」とほぼ同規模の土壇で、同規模で同形式の廊が付属していることから、金堂並みの高い地位にあったと考えられています。

なお、「嘉祥寺」は、少なくとも「藤原基衡」が円隆寺を建立した以前から存在していたと推定されています。

キーワードチェック:吾妻鏡
「吾妻鏡」は、鎌倉時代の1180年~1266年までの87年間について記された日本の歴史書のことで、主に治承・寿永の乱と平氏政権の滅亡、鎌倉幕府の成立、承久の乱、執権政治の開始、宮騒動、宝治合戦、得宗支配の確立などについて記述されています。

講堂跡

「臨池伽藍跡」の「講堂跡」は、「藤原基衡」が建立した「講堂」の跡地のことで、「吾妻鏡」にも記されています。

現在、「講堂跡」とされている遺跡は、「大泉が池」の北、「金堂円隆寺跡」の西北、「嘉祥寺跡」の東北の方角にあり、東西約83尺、南北約80尺の方形の土壇です。

この「講堂跡」の壇上には礎石が十数個乗っており、土壇中央部の北寄りには、仏壇跡と推定される土でできた小高い隆起があります。

ここに建造されていた講堂は、前面にある庇柱筋が「金堂円隆寺」の北面にある柱筋の一直線上にあることから、金堂と密接な関係を持ち、一体的に計画・造営されたものと考えられています。

キーワードチェック:尺
尺は、尺貫法による長さの基本単位で、一尺は、およそ30.3センチです。

南大門跡

「臨池伽藍跡」の「南大門跡」は、現在も12個の礎石が並ぶ桁行(けたゆき・横、東西)三間、梁行(はりゆき・縦、南北)二間の平面形式の門で、「吾妻鏡」に記されている「二階惣門」のことです。

「毛越寺」の「南大門跡」は、講堂跡と同様に、基壇構築に周囲に堰板(せきいた)を使う工法「版築」(はんちく)が用いられ、堰板を止める柱が発見されています。

この「南大門跡」からは、築垣(ついがき)、犬走り、溝が発見され、創建当時からこの3つが揃って発掘された遺跡は「毛越寺」だけで、その規模が大きいことからも、このお寺の特異性がうかがえます。

キーワードチェック:堰板
堰板とは、建築などの基礎工事や土木工事の際に、掘削した土が崩れないように設けられた土留めようの板のことです。
キーワードチェック:版築
版築とは、建材に土を使用して強く突き固め、土壁や基礎部分を徐々に高く構築する工法のことです。
キーワードチェック:築垣
築垣とは、築地ともいい、古くは土だけをつき固めた土塀のことで、柱を立てて板を芯に両側を土で塗り固め、屋根を瓦で葺いた塀のことです。
キーワードチェック:犬走り
犬走りとは、垣や溝の間や、土手の斜面にある細長い通路または平地部分のことで、犬が通れる程度の幅しか道がないことに由来しています。

金堂円隆寺跡

「臨池伽藍跡」の「金堂円隆寺跡」は、「藤原基衡」が建立した「勅願寺」のことで、本尊は雲慶が作った丈六の薬師如来でした。

この「金堂円隆寺跡」は、「毛越寺」の中心伽藍で、東廊の先端には「鐘楼」(しゅろう)が、西廊の先端には「経楼」(きょうろう)が附属していました。

常行堂・法華堂跡

「臨池伽藍跡」の「常行堂・法華堂跡」のうち、「常行堂跡」と呼ばれる遺跡は、「法華堂跡」の土壇の南方約30尺にある土壇のことです。

また、「法華堂跡」は、寺域の東北隅部にある南北約五十尺、東西約50尺の広さの方形土壇のことで、現在も23個の礎石が残存し、周辺の玉石敷面より1.5尺ほど高かったと推定されています。

建造物

「毛越寺」の建造物には、下記の4つのスポットがおすすめです。

1)開山堂
2)本堂
3)芭蕉句碑
4)常行堂

開山堂

「毛越寺」の「開山堂」は、「毛越寺」を開いたとされる慈覚大師「円仁」がまつられている堂で、大師像のほかに両界大日如来像、藤原三代(清衡、基衡、秀衡)の画像が安置されています。

本堂

「毛越寺」の「本堂」は、平安様式の建物を平成元年に建立したもので、本尊は、平安時代に作られた薬師如来で、本尊の脇士には日光・月光両菩薩、さらにその周りに本尊を守護する四天王が安置されています。

芭蕉句碑

「毛越寺」の「芭蕉句碑」は、「毛越寺」境内にあり、「松尾芭蕉」が1689年に詠んだ「夏草や 兵どもが 夢の跡」という句の直筆の碑のことです。

この句は、1189年に「藤原泰衡」に急襲された「源義経」が妻子とともに自害したことから、奥州藤原氏の栄華と悲運の義経主従をしのんで詠んだと言われています。

常行堂

「毛越寺」の現存している「常行堂」は、仙台藩主「伊達吉村」公の武運長久を願って1732年に再建されたものです。

この「常行堂」は、宝形造りで須弥壇の中央に本尊・宝冠の阿弥陀如来、両側に四菩薩、奥殿には秘仏の「摩多羅神」(またらじん)が祀られています。

奥殿の扉はふだんは固く閉ざされていますが、33年に一度御開帳され、祭礼の正月20日には、古式の修法と法楽として延年の舞が奉納されます。

 

キーワードチェック:摩多羅神
「摩多羅神」とは、天台宗の本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神とされており、「毛越寺」の「摩多羅神」は、東北地方で古くから作物の神様として信仰されています。

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」の特徴・おすすめスポット その3:観自在王院跡

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」の「観自在王院跡」は、「土原基衡」の妻が岩手県の平泉に建設した寺院跡で、境内跡は「毛越寺境内附鎮守社跡」の一部として特別史跡に、庭園は「旧観自在王院庭園」として名勝に指定されています。

「観自在王院」は、1189年以後に荒廃して水田となっていましたが、庭園は1973年~1976年にかけて発掘・復元されました。

この「観自在王院跡」にある浄土庭園の遺構は、ほとんど完全な状態で残っており、平安時代に記された日本最古の庭園書「作庭記」に記されている作法どおりに作られたものと言われ、平安時代の数少ない庭園遺構として評価されています。

池の北岸には「阿弥陀堂」と「小阿弥陀堂」が置かれていることから、この「観自在王院跡」にある浄土庭園は、極楽浄土が表現されているものと考えられています。

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」の特徴・おすすめスポット その4:無量光院跡

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」の「無量光院跡」は、岩手県平泉町にある史跡で、「無量光院」は、「藤原秀衡」が京都にある「平等院鳳凰堂」を模して建てた寺院です。

当時は、「平等院鳳凰堂」をしのぐ煌びやかさがありましたが、たび重なる火災により焼失したため、今日では土塁や礎石のみが残っています。

建物の中心線は、「西の金鶏山」と呼ばれ、この「無量光院跡」の浄土庭園は、その稜線上に沈んでいく夕日が極楽浄土をイメージさせる最高傑作であると言われています。

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」の特徴・おすすめスポット その5:金鶏山

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」の「金鶏山」は、岩手県西磐井郡平泉町にあり、「中尊寺」と「毛越寺」のほぼ中央に位置する山で、「藤原秀衡」が「無量光院」の西側に一晩で築かせたという伝説が残っています。

標高は98.6メートルで、「金鶏山」という名称は、雄雌一対の金の鶏を山頂に埋めたことに由来していると言われています。

観光課や公式サイトからの情報まとめ (動画など)

公式サイト
https://iwatetabi.jp/

ひらいずみナビ
http://hiraizumi.or.jp/

アクセス方法

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」へのアクセスは、下記の通りです。

中尊寺

住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
アクセス方法:JR平泉駅より徒歩25分

毛越寺

住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉大沢58
アクセス方法:平泉駅から徒歩7分、車3分

観自在王院跡

住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉志羅山
アクセス方法:平泉駅から徒歩で7分

無量光院跡

住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉花立
アクセス方法:平泉駅から徒歩で5分

金鶏山

住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉花立
アクセス方法:平泉前沢ICより車で約15分

まとめ

いかがでしたか。

「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」は、そのほとんどが遺跡や再建されたものですが、奥州藤原氏の繁栄と衰退を知ることの出来る貴重なものです。

世界遺産にも登録された「平泉仏国土を表す建築・庭園および考古学的遺跡群 」をまだ訪れたことがない方は、ぜひ一度、足を運んでみてはいかがでしょうか。

おすすめの記事